2015/08/30

【日本の土木遺産】布引ダム(神戸市) 欧古典様式の日本初・重力式コンクリートダム

山陽新幹線新神戸駅の北側にある遊歩道を、生田川の渓流に沿って登っていくと、目の前に巨大な石張り堰堤が現れる。
 この堰堤は俗称を布引ダム、正式には布引五本松堰堤と言う。水道専用施設として1900(明治33)年に建設された、日本で最初の重力式コンクリートダムである。堰堤高33m、堤頂長110m、有効貯水容量は約76万m3を誇り、規模は当時の日本最大級で市民35万人に給水する計画であった。写真は著者。

 堤体の表面は型枠代わりに使用された石積みで覆われ、巨大な城壁を思わせる。堤体の上部にはデンテル(歯飾り)が施されており、ヨーロッパ古典様式の風格ある外観を呈している。布引ダムは、95年に発生した阪神・淡路大震災にも耐え、100年を経過した現在も神戸市の貴重な水源となっている。
 神戸の水道は1888(明治21)年、前年に完成した横浜の水道敷設を立案したH・S・パーマーによって計画された。
 当時の給水人口は13万人。水源を布引及び再度(ふたたび)渓谷とし、堰堤を有しない掘込貯水池方式として自然水圧で配水する計画であった。
 しかし当時、一般の人々の水道敷設への関心はゼロに近かった。89(明治22)年には神戸に市制が敷かれたが、人口増加による飲料水不足が続く中、翌年にはコレラが大流行し、1000人あまりの死者を出すに至り、これを契機として水道敷設の機運が高まった。
 この間、国際貿易港としての神戸の発展はめざましく、パーマーの計画は再検討を余儀なくされた。
 市は92(明治25)年6月、内務省のイギリス人技師W・K・バルトンに水道施設の設計を委託した。
 97(明治30)年4月に工事着工するものの、当時の給水人口は35万人に膨れ上がるなど、急激な都市の発展と物価高騰に対処するため、水道敷設計画は大幅な変更が必要となっていた。
 そして、バルトンの原設計に佐野藤次郎を始めとした技術者が修正を加える形で進められた。パーマー案から実に10年の歳月が流れていた。
 96(明治29)年11月に発足した神戸市水道事務所は、水道計画の変更に備え、大阪市より藤次郎を呼んでいた。
 99(明治32)年3月、工事長となった藤次郎は布引ダムの本体工事に着手した。91(明治24)年に帝国大学土木工学科を卒業した藤次郎は、大阪市の水道建設に従事し、水道鋳鉄管購入・検査のためスコットランドのグラスゴーに2年間滞在した経験を持つ。また、帝国大学の衛生工学教師であったバルトンの教え子でもある。
 日本で最初のコンクリートダムを設計・建設した過程には、国際的視野を持ち新技術導入に対する強い執着心だけでなく、その技術を支えたバルトンの尽力によるところが大きい。明治初め、欧米諸国では重力式コンクリートダムが次々と竣工し、設計理論も進歩していた。布引ダムではこれら最新の理論も取り入れられた。
 布引ダムの堰堤外面の壁は、割石や切石等で石積みされ、石と石の接合部分にセメントモルタルが埋め込まれた。
 外面の石積みには45-60cmの間知石(けんちいし=前面がほぼ方形で角錐形をした石)が用いられ、堰堤建造時の型枠としても使用された。
 堰堤内面は厚さ90cmのコンクリートとし、これより外面の石積みにいたる間はコンクリートに現地発生材の粗石を詰め込んでいる。
 堤体へ粗石を入れることは、堤体重量を増すとともに高価なセメントの節約に配慮したものである。
 布引ダムでは、阪神・淡路大震災の影響により漏水量が増えたことから、堤体の耐震補強と堆積した土砂の浚渫工事が進められ、2005年に完成した。
(いであ 小澤宏二)
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