2014/06/24

【座談会】自衛隊と地域建設業 東日本大震災時の対応を幹部が振り返る

発災後、被災地には全国から官民の多様な機関が集結し、人命救助や緊急物資輸送、応急復旧工事などに当たった。中でも自衛隊員の貢献ぶりは多くの国民から高い評価を得た。しかし、その背景には国土交通省東北地方整備局や地元建設業界、全国ネットワークを持つ建設関係の団体・機関などとの協働作業があった。首都直下地震や南海トラフ地震などの発生が予測されている中、被災地で初動対応に当たった陸上自衛隊東北方面総監部の幹部4人による座談会を通じて、今後生かすべき震災の教訓や防災・減災のあり方を探る。写真は赤松雅文陸将補。


◆東北方面総監部幕僚長兼仙台駐屯地司令 赤松雅文陸将補
◆東北方面総監部装備部長 平栗浩一一等陸佐
◆前東北方面総監部装備部施設課長 奥田浩一一等陸佐
◆船岡駐屯地第十施設群長 中田茂喜一等陸佐


平栗氏
平栗 発災時は東京・市ヶ谷の陸上幕僚監部に勤務していた。次々と入ってくる悲惨な状況を確認していると、北澤俊美防衛大臣(当時)から大規模震災災害派遣命令が出たので、施設部隊の機材などの手配・調整をした。初動期は、あまりにも被害が大きかったため、行政も住民も身動きが取れていないと感じた。しばらくすると、機材を持っている地元の中小建設業の人たちが手弁当で一生懸命に近くの人たちを救助している姿を確認できた。
 奥田 私も発災時は、北海道で部隊長を務めていた。速やかに応援要請があったが、船のチャーターに1日掛かったため、被災地に進入したのは4日後の3月15日だった。われわれの部隊は気仙沼市や南三陸町を中心に道路を啓開しながら人命救助と捜索活動を実施した。地元建設業から地域の情報を教えてもらったほか、ヒューム管や土取り場などの提供を受けたことが印象に残っている。
 赤松 私も当時は東北にはおらず福岡にある西部方面隊の小郡駐屯地で第5施設団長を務めていた。3月12日に派遣命令が出て、13日午前に福岡を出発した。ドライバーを交代させながら約24時間かけてほぼノンストップで福島に到着した。新地町の役場庁舎からみると、一面湖のような状況で、民間人は皆無だった。

中田氏
中田 発災当日は、宮城県内の王城寺原演習場に入っていた。被災状況が少しずつわかってきて、午後7時近くにわれわれの部隊に名取、岩沼両市に入るように指示が出た。午後10時に市役所に着き、翌日から約72時間、湖状態になったところで人命救助に当たった。その後、中部方面隊の第10師団が船岡駐屯地(宮城県柴田町)に北上してきたので、われわれの部隊は石巻市と女川町で行方不明者を捜索した。
 赤松 さきほど、道路啓開の話が出てきたが、われわれ陸上自衛隊と東北地方整備局との間ですみ分けのようなものがあった。具体的には東北整備局と地元建設企業が南北の幹線道路から沿岸部への接近道路を確保する、いわゆる“くしの歯作戦”を実行した。われわれは現場で部隊が効率的に捜査できるように末端の道路を啓開した。幹線道路の啓開のおかげで、われわれも速やかに現地で作業ができたのではないか。
 奥田 われわれが道路からがれきを取り除き、車両が1台通れるスペースを確保して前に進むと、警察と消防が後に続いて捜索範囲を広げていった。その後に電力会社が電柱を立て、さらに地元建設業が道路を拡幅していくという、1つのチームのような状況だった。
 平栗 現場に近い道路は水浸しで、がれきも散乱していた。がれきの下にご遺体がある可能性があるので、単純によけることができなかった。こういう仕事は、われわれの役目だ。整備局が啓開した道路は、物資補給の面でも非常に役立った。 奥田 最初はわれわれ自衛隊を始め、それぞれの機関が単独で行動していたが、行政機能が少しずつ回復してくると、ミーティングが行われるようになった。そこで自衛隊や警察、消防、民間企業などで役割分担をしたり、お互いに支援してもらったりした。
 中田 がれきの運搬については、地元建設企業と協働できたのではないか。特に発災から2カ月過ぎたぐらいからは、どんどん中に入れるようになったので、われわれと建設業界でエリアなどを分担しながら作業を進めた。
 赤松 東北整備局とは、排水面でも連携させていただいた。1mぐらいの水位があったところボートで移動しながら、浅いところで飛び降りて胴長を履いた隊員が行方不明捜索を行ったが、効率が悪かった。水を抜きたかったが、われわれは排水能力のある車両を持っていなかった。そうした中、整備局が排水能力のある車両を持っていると聞き、シェアしてもらった。
 中田 行政機能の立ち上がりスピードが非常に重要だと感じた。今回の震災では、ある地域で市町村合併によって誕生した市と、合併しなかった町が被災した。市の方は被害が甚大だっただけでなく、旧市町村の動きがバラバラで、意志決定が遅かったため、さまざまな面で対応が滞ってしまった。一方、町は壊滅的な被害だったにもかかわらず、行政機能の立ち上がりが早かったため、重機の投入もスピーディーだった。
 赤松 われわれは自治体の要請を受けて出動し、自治体の司令のもとで役割を果たす。逆に言えば行政に意志決定する人がいなければ、右往左往してしまう。行政機能をいかに維持できるか、いかに早く回復させるかが災害対応のポイントになる。

奥田氏
奥田 私が入った自治体では、建設課長がわれわれに指示を出した。最初はありがたがられたが、あまりにも仕事量が膨大で、スピードを求められたため、課長は精神的に参ってしまった。司令塔がいないところでは、われわれが持っている能力を十分に発揮できない。危機管理の知識を持った人材がいて、われわれのような組織を動かせばフルに活躍できると思う。
 平栗 正直に言うと、われわれはほとんどの災害に自前で対応できると思っていた。しかし、今回の震災は津波被害という特殊性があった。倒壊した家屋だけみると、阪神・淡路大震災の方が多かったが、津波で流されたわけではないので、人がどこにいるのか大体わかった。今回はがれきを機械で剥がさないとわからなかっただけに、自衛隊だけの機械力では限界があると初めて感じた。今後、発生が予想される首都直下や南海トラフ地震でも建設業界の協力が不可欠だ。
 赤松 今回の震災対応について、世論調査などで多くの人が「自衛隊が頑張った」と評価してくれたが、私自身はわれわれの力不足を強く感じた。もちろん、隊員は非常に良くやってくれたが、自治体からのさまざまな依頼に応えられず、できない理由を説明することが指揮官の仕事になってしまった。民間の力を借りなければ任務を遂行できなかった。
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)

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