2013/07/28

【けんちくのチカラ】慶大の地震学者、大木聖子さんと東京大学地震研究所1号館

東大地震研究所1号館(免震棟)
地震学者としていま、防災の本当の意味がわかってきたような気がしている。ことし4月、東京大学地震研究所助教から慶應義塾大学環境情報学部(SFC)准教授に転籍し、本格的に防災に取り組み始めた大木聖子さんは、そんな手応えをつかみ、学校の防災教育に奔走する。「3・11」の辛い経験が転機だった。一人ひとりの命の重さへの希求。わかっていたつもりだったが……。膨大な犠牲者を前に、地震学者としての後悔と無念。だからいま、講演や防災教育では「絶対に死なないで」と命の大切さをまず訴える。そして「地震で何が起こるかは明らか。対策も明解だ」と説く。命を守る新しい地震学をつくる。そのために地震学者としての限界も発言する。パラダイムが転換した「3・11」は、愛着が深い東大地震研究所1号館(免震棟)で未知の揺れを経験。少し経って、10カ月前にここを訪れた東北の中学生のことが頭をよぎった。


◇接点

 米国での研究から戻った2008年、東大地震研の助教に就任し、新設された広報を担当した。大木さんは、地震予知のイメージが強過ぎる地震学の等身大の姿を見てもらおうと毎月1回、一般市民や修学旅行生などを対象に、広報室がある1号館ほかの地震研を公開する「ラボツアー」を始めた。
 「予知に対する過剰な期待や誤解を解消したいと思って始めました。地震学などの科学技術には必ず限界があります。その限界を一般市民に伝えたうえで、予知の研究も重要であることを説明して継続していく。私の認識では、予知はまだかなり先のことです。ツアーでは詳しい地震のメカニズム、免震の仕組みなどを伝えていました。1号館はそうした地震学と市民の接点の場でもあったわけです」
 小さいころから動物や虫が好きで、生態学を学びたいと思っていた。だから人間のつくる構造物やシステムには興味がなかった。地震研はそんな大木さんが、初めて愛着を持った人工構造物といえる。
(*現在、「ラボツアー」は行っていない)

◇備え

 予知への過剰な期待を実感してから、仮に予知ができたとしても防災は必ず必要であることも伝えてきた。
 「地震で起こることは、新たな細菌による感染症などと違ってはっきりしています。建物が壊れたり、家具が倒れてくることを防ぎ、津波が人的被害をもたらすマグニチュード8以上では高台に避難するなど、死者を出さない対策は確実にできます。家具を留めることは、地震国の日本に住む者の作法といってもいい。もちろん、ハードに加えて人間がもうちょっと賢くなって、社会が強くなれば、遠くない未来に、震度7で人が死亡することはなくなるのではないでしょうか」
 科学技術の限界に関しては、地震研1号館の免震にも言えること。
 「免震の建物は安心感がありますが、万能ではありません。東日本大震災のような地震では大きくゆっくりと揺れます。ですから本棚は留めておくとか、上の方には物を置かないなど対策を取っています。こうした技術の限界を知って、国や専門家に任せるのではなく、自らが対策を取る、21世紀はそういう時代です」

◇無力

 東日本大震災が発生した時は1号館の広報室がある3階にいた。
 「緊急地震速報で表示されるマグニチュードがどんどん大きくなっていくんです。7.5になってパソコンを離れ、同室のスタッフに対応を指示しました。その後、ものすごく揺れ始めて、『これはとんでもないことが起きている』と感じました。テレビの取材が入り、巨大地震だったので余震が数年続きます、と発言したらすぐさま苦情が来て、『煽るな。お前が死ね』と言われました。科学的な事実で、余震に備えることが命を守ることですから、屈せず発言しました。津波の映像を見たとき、地震研究者として申し訳ない、自分の無力さがこれだけの犠牲者を出したんだという感覚を覚えました。激しい苦情もあって本当に怖かった」

◇絶対に

 地震直後の膨大な取材などに対応することで現実から「逃避」する日が10日間ほど続いた。その後ふと思い起こしたのが、10カ月前に修学旅行で地震研を見学に来た宮城県気仙沼市の中学生だった。
 「この地震研の3階フロアで仕事が終わった後毎晩、見学に来た中学生が無事かどうかを検索していました。見学会のレクチャーでは、地震のメカニズムなどを詳しく説明しました。でも、それは交通法規で赤信号は止まれというのをわかりやすく説明しているに過ぎなかったんです。いま、あの子たちが見学に来たら『絶対に死なないで』とまず言います。申し訳なかった……。防災は人の命の大切さを考えることです」
 後日、見学に来た中学生は全員無事だったことがわかった。これはテレビのドキュメンタリー番組で放映された。
 「自分が1回でも会った方は絶対に死なせない。そう決めました。揺れの長さはマグニチュードに関係します。1分以上の強い揺れを感じたら津波が起こることを想定して、警報を待たずに高台に逃げてほしい。これを常識にするくらいの情報発信が必要でした」

◇父、母

 「地震が人を殺すのではなく、建築が人を殺す」。地震学者はよく口にするのだという。大木さんが講演でそう話したら、講演後、建築学科の学生が認識を改めたと目に涙を浮かべながら言ってきてハッとした。
 「責任逃れでも建築を批判するのでもなく、住民への啓発なんです。建物を強くし、家具などを固定すれば地震で死ぬことはない。その意識を持ってほしいということです。父が建築家なのですが、学生の話を聞いて、この言葉をどう受け止めるのだろうかと思いました」
 父親は、宮大工だった祖父の家業を継いで建築家になったが、2人姉妹の大木さんも姉も後を継がなかった。
 「父は、『家は20年、30年すると傷みがでてくる。その時に面倒を見られないのでは無責任だ』と言ってある時から新築を引き受けませんでした。普段はおちゃらけてばっかりの父ですが、この時は尊敬の念を抱きました」
 地震学の道に進んだのは母親の影響が大きいと言う。
 「阪神大震災が地震学者になった直接の契機ですが、母の与えてくれた本で地球の生態を知ったのが始まりですね。小学校低学年のころでしたか、私が手のひらにアリをのせて歩いていたら、母が『このアリさんは手のひらにのっていることを気づいているかな』と言ったんですよ。まさに地球と人間の関係でした。その時に一段高い世界観が芽生えました。母はどんな分野の話にもついていける聡明な人なので、父は『スーパー素人』と呼んでいます」(笑)

 (おおき・さとこ)慶應義塾大学環境情報学部(SFC)准教授。専門は地震学・災害情報・防災教育など。高校1年生の時に起こった阪神・淡路大震災を機に地震学を志す。2001年北大理学部地球惑星科学科卒業、06年東大大学院理学系研究科にて博士号を取得後、カリフォルニア大サンディエゴ校スクリプス海洋学研究所にて日本学術振興会海外特別研究員。08年4月から東大地震研究所助教。13年4月から現職。主な著書に、『超巨大地震に迫る-日本列島で何が起きているのか』(纐纈一起教授との共著、NHK出版新書)、『地球の声に耳をすませて』(くもん出版)など。12年9月『情熱大陸』(TBS)出演。




◇設計者の辻林舞衣子さん(NTTファシリティーズ)

 2006年完成の東大地震研究所1号館は、国のPFI事業がスタートしたばかりの同事業対象プロジェクトとなった。施主のSPC(特別目的会社)は、施工の清水建設と設計・維持管理のNTTファシリティーズの2社の出資会社「本郷地震研PFI株式会社」。
 NTTファシリティーズの設計担当者だった辻林舞衣子建築事業本部CM部主任は、「当時東大では、PFIを3件で初めて適用しました。ノウハウが少なく手探りの状態でした。コンペだったのですが、初期のPFIは、低価格がとにかく有利で、厳しいコストでの設計になりました」と振り返る。
 しかし、話を聞くうちに様々な機能やデザインを盛り込んでいることがわかってきた。アイデアを持ち寄り「形」にした設計者の「デザイン力」の矜持といえる。
 最大の機能は免震構造だ。ユーザーである東大の「要求水準書」には免震構造は絶対条件として明示されていなかった。設計者側が最優先した提案だった。
 「巨大地震が起きた時にいち早く全国に地震情報を発信する拠点ですから、安全性を最大に担保できる免震構造が絶対に必要だと考えました」。本郷キャンパスでは初の免震構造で、当時の東大では画期的な出来事だった。
 意匠は、母校でもあり思い入れが強かった。低層部のレンガ色の「ルール」は踏襲し、同色のタイルを使った。「律儀」「誠実」をイメージした四角い形状には緊張感を持たせ、細部に配慮した。
 「研究所の重みを出すためエントランスには、一枚板の打ち放しコンクリートのひさしを付けました。地球を研究する場所なので、自然素材の色を生かそうと思いました」
 内部は、1-3階までの共用空間を吹き抜けでつなぎ、緑と光を取り込める2階に全研究者が集える「コミュニティラウンジ」を設けたのが最大の特徴。最上階まで各フロアを淡いカラー分けしたのも研究者に好評だ。

建設通信新聞(見本紙をお送りします!)2013年7月26日

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